日々思うことを、気まぐれに書き記しております・・・。         また、旅行記も書いたりしています。どうぞお楽しみください。

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『可能性』そのあり方とは? その2

なかばコメントがつくのをあきらめていた前回の記事ですが、
面白い突込みをしてくれた方がいるので、今回はそれも踏まえてもう少し問題を明確にしていきたいと思います。

前期時へのコメント(抜粋) Posted by 八坂メグさん

また、現在、過去の「可能性」についての話ですが、過去の~と論している時点で、T+Wさんの考えはやはりどちらも「現在」を軸として考えているように感じられてます。僕は可能性を論じる際に注意しなければならないものとして、ある時間軸のある時点においてその時、その時の視点に立たなければならないということを挙げます。簡単に言うとT+Wさんの考えと僕の考えで決定的に違うのは「視点」です。

僕は普段直観的に感じている、「あの時もしも~だったら」とかは別段におかしいことではないと思いますし、主体性だって幻なんかではないと思っています。



実は以前の記事を書いた後、友人にも全く同様の突込みをされました。。
彼の言葉を借りると、『大過去の私からみた「(現在から見た)過去の可能性」』を論ずることに問題はないと。
たしかに八坂さんと友人の言うとおりなんですよね。
もし私が現在における可能性というものが定義できる(もしくは主体性が確実に存在する)と言い切るならば、過去の可能性もやはり同様に定義できてしかるべきなのです。

つまり、私が疑っていたのは私たちの持つ『(現在の)可能性』さらには人間の主体性、そのものだったということになります。
全くもってばかげたことを言っているように思えますが、こう考えてみるとどうでしょう?

前回の記事で挙げたとおり、私にとっての可能性の定義は
『現在における可能性というのは、後続する時間における私たちのあり方に対する選択の自由度である』
というものでした。
ここで問題になってくるのが、「本当に選択の自由度は存在するのか?」という問いです。

「私たちがある分かれ道で、右に行くことも、左に行くこともできる。」
こういった語り方が可能性というものの基本的なあり方です。
この主張は私たちにとってあまりに当たり前に思えることです。
ところが、よくよく考えてみるとこれはあくまで私たちの「信念」であって、その真偽を確かめることのできない類の主張なのではないでしょうか?
なぜなら、私たちは常に「右に行くことか、左に行くことしかできない。」からです。
あなたがもし右に行ったとすれば、それは世界の決定されたシナリオとして右に行ったのかもしれないですし、左に行ってしまったならば、その時右に行けたかどうかを確かめる術は存在しないのです。

以上が私の考える「可能性」における問題点なのですが、
この議論、実は上で八坂さんが指摘した問題点を再びはらんでます。
ここではやはり現在から見た過去の可能性を論じているのです。

しかし、現在からの視点のみで「可能性」を論じることができるのでしょうか?
実証的な「現在からの視点における現在の可能性」を論じるためには、現在が複数の未来に分岐する世界の重ね合わせであるという(現在における)確かな証拠が存在しなければいけません。
そう考えると、私にとって「現在からの視点における現在の可能性」はあくまで信念である、というように思えるのです。

以上から、私の(とりあえずの)結論としては、
『「可能性」はあくまで経験的に獲得された信念であって、実証可能な事実ではない』
ということになると思います。
なんとも歯切れの悪い結論になってしまいました。
今回もつっこみ、文句等々首を長くしてお待ちしております。
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『可能性』そのあり方とは?

今日は少しまじめなお話を。

先日、友人と会話していたときに、私の「がんばる」という言葉に対する特殊な解釈について議論になったことがありました。

例えばある人が大学に合格することを目指して勉強するような状況を考えます。
ある一定期間を受験生として過ごし、ある程度真面目に勉強をしましたが、
その一方で、ついついかなりの時間を遊びに費やしてしまいました。
そしてその結果、その人が大学に落ちてしまったとします。


さて、果たしてこの人は「がんばらなかった」から受験に失敗したのでしょうか?

その時の私の考えでは、答えはノーでした。
一般的な意味で言う「がんばれなかった」も、結局はその人の実力のうちであって、
それも含めて『がんばった』結果としてこの人は大学に落ちたのだ。
というのが私の考えだったのです。

今でもこの考えが根本的に問題があるとは思っていないのですが、
私の思考の問題は「がんばらなかった」という言い分に対する違和感を、
「がんばる」という言葉の解釈の変更によって解消しようとした点にあります。

わたしが使った『がんばる』の意味の説明において「がんばる」という言葉
(「」と『』によって区別させてもらっています。)
の意味を使っていることからもわかるように、やはりこのがんばるという言葉の意味の拡張は無理矢理だったのでしょう。


それでは、私が感じた違和感の原因は結局なんだったのでしょうか?

私は、頑張らなかったから失敗した、という言い分が内包している、
もしあのとき頑張っていれば成功した、という主張にこそ問題があるように感じます。

端的にその問題点を指摘するならば、
過去に対して可能性を持ち出すこと、それが問題なのです。

ではなぜ、過去の可能性を考えることに問題があるのでしょうか。

まずは、現在における可能性という考え方の規定から始めましょう。
(論点を明確にするために、ここでは私たち、主体的な意識を持つと考えられているものたちの可能性について話を限定したいと思います。)

『現在における可能性というのは、後続する時間における私たちのあり方に対する選択の自由度である』

この規定は、一般的な「可能性」という言葉に対する直感を説明したものとしては十分なように思えます。

ここで、過去の可能性を考えることに関する問題点が明確になっています。
『可能性』という言葉の本質は選択に対する自由度なのであって、
既に過ぎ去り、二度と再現されることのない(永劫回帰のない)状況に対して『可能性』を考えることはできないのです。
あるのはただ確定した事実のみであり、そこに選択の余地はありません。
それゆえ、『過去の可能性』などという考えは明らかな誤りなのです。


私は、以上のような考えで私の違和感の原因を説明し尽くしたかのように考えていました。


しかし、『過去の可能性』は、次のようにも定義できるのです。
『過去の可能性というのは、過去のある時点において存在していた、それに後続する時間における私たちのあり方に対する選択の自由度である。』
上に挙げた『現在の可能性』が問題ない定義であるならば、この『過去の可能性』も同様に問題ない定義となるはずなのは明らかです。


そうすると、この議論には明らかな矛盾が存在するのです。
問題は私が行った『現在の可能性』の定義にあるのでしょう。

それでは、私たちが直感的に信じる『可能性』ひいては『主体性』は幻なのでしょうか!?
私の思考はここで行き詰まってしまいました。
それで、いろんな人の意見を聞いてみようとブログに投稿してみた次第です。

皆さんのコメントをおまちしてます!

雨のち…

昨日はあの後、天気予報通りに雨が降りましたね。
この時期にしては強い雨と風に、よく乾いた落ち葉たちはみなしっとりと湿ってしまい、
きれいに色づいた銀杏の葉たちはそのほとんどを散らしてしまいました。

昨日の夜、10時ほどに図書館を出て家に帰るときは、
足元の柔らかい感触と、湿った足音に気持ちが沈んでいました。


ところが今日学校に行ってみると、そんな気持ちは一気に吹き飛んでしまいました。

銀杏並木の道一面に広がる鮮やかな黄色のじゅうたん。

季節はずれの強い雨が一気に葉を落としてしまったために
黒ずんでしまった葉っぱはほとんど無く、
雨に湿った落ち葉はぴったりと地面に張り付いて、
まるで本当のじゅうたんのようでした。


本来ゆっくりと散っていく葉っぱたちをたったの一晩で全て散らしてしまってこそ実現される、とっても贅沢な美しさでした。


そして銀杏の葉を散らす昨日の雨と風こそが、
本格的な冬の到来の知らせとなったのでしょう。

大学生として最後の秋の終わりは、とても豪華な光景で私の心に焼き付けられました。

さくさく ひらひら 秋の昼休み

さくさく さくさく

最近大学には落ち葉がいっぱい。
この時期の程よく乾いた落ち葉を踏むときの音が私は大好きです。
今日もついつい落ち葉のたまったところにちょっと寄り道して、
すこし歩幅を小さくして、さくさくさくさく、楽しんできました。

ひらひら ひらひら

今日は風が強いので、またたくさんの踏みごろな枯れ葉たちが落ちてきています。
銀杏の葉っぱは踏んでもおもしろくないけど、
ようやくきれいに色づいた鮮やかな黄色が風に吹かれてひらひらと舞い落ちてくる姿は、
一ヶ月前の困ったにおいを差し引いても、やっぱりすばらしい。


なんでこんな真っ昼間からブログを更新しているのかというと、
午後からの雨はきっと、
さくさくの落ち葉を湿らせてしまって、銀杏の葉っぱも散らしてしまうから。

そうしたらもうきっとこの気持ちもしぼんでしまって、
また来年まで出会うことはないでしょう。
だからその前にこの感情を、とにかくつなぎ止めておきたかったのです。

ヨーロッパ旅行記 東欧周遊編 ブダペスト その3

二週間ぶりくらいになりますが、今日は旅行記の更新です。

久しぶりの旅行記ですので、今日は盛りだくさんでいきますよ!!

今日紹介するのは…
・ハンガリー国会議事堂
・聖イシュトバーン大聖堂
・英雄広場とアンドラーシ大通り
というペスト地区を代表するランドマークたちです!

目に鮮やかなブダペストの名所たちをぜひゆっくり見ていってください。

More...


Be a Bright Blue / Saxon Shore レビュー

今日は音楽レビューです。

紹介したいのは、以前当ブログでも話題に上げたことのある
アメリカのポストロックバンド、Saxon Shoreの1stアルバム『Be a Bright Blue』

以前は3rdフルアルバムである『The Exquisite Death of Saxon Shore』を紹介しましたが、
1stはその3rdとは少し趣を異にするアルバムです。

このアルバムは全体を通じてリラックスした雰囲気の漂うアルバムですが、
なんと言ってもこのアルバムの必聴ポイントは、
Matt Dotyのギターと、この1stだけに参加しているJosh Tillmanのドラムの絶妙な掛け合いでしょう。

Saxon Shoreのサウンドの中心であるメロディアスでメランコリックなDotyのギターは本作でも遺憾なく発揮されているのですが、その後に発表された2ndや3rdと異なっているのは、
まるでDotyの奏でるギターの旋律と対を成すかのようにメロディアスなTillmanのドラムの存在です。
軽妙なTillmanのドラムが全体を通じて自然な緊張感を与えてくれています。

例えば本作二曲目の『Replacement Drivers』
静謐で冷たいギターのアルペジオから幕を開けます。
次第に華やかさを増していくドラムに呼応するかのようにギターの旋律も次第に鮮やかに色づいていきます。
そして、一旦のブレイク。
その後は打って変わってドラムが曲を牽引していきます。
再び控えめのリズムからギターとの呼応を経て、どんどんと華やかさを増すドラム。
歌うようなTillmanのドラムの魅力が余すことなく発揮される珠玉のパートです。
最後には共に輝きを増しながらクライマックスへとなだれ込んでいきます。


この曲に端的に表れているのですが、
確かにこのアルバムには、例えば3rdの一曲目『The Revolution Will Be Streaming』に見られるような思わず目を細めてしまうほどに眩しいクライマックスの場面はありません。

しかし、このアルバムは私にとって、
まるで初夏の日差しの中のそよ風のふく木陰のような、
そんな心安らぐ場所となってくれるのです。
たとえ激しい盛り上がりが無かったとしても、
優しい風に吹かれることは決して退屈ではないのです。


疲れた時は、こんなアルバムに耳を傾けて、ほんの少しだけゆっくりしてみてください。
ちょっとだけ、気持ちが楽になるかもしれませんよ?

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