日々思うことを、気まぐれに書き記しております・・・。         また、旅行記も書いたりしています。どうぞお楽しみください。

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「おとなしい」少年の暴走

■「殺せば刑務所に行ける」18歳少年、また身勝手な凶行
(読売新聞 - 03月26日 16:04)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080326-OYT1T00429.htm

■卒業式後に小6飛び降り自殺か
(毎日新聞 - 03月26日 02:41)
http://mainichi.jp/select/today/archive/
news/2008/03/26/20080326k0000m040146000c.html

どちらの事件もここ数日に起きた「不可解」な少年の暴走に関する事件。

まずなによりも初めに言っておきたいのはのは、一つ目の事件のような事件は決して許されてはならない、ということでしょう。これはいくら強調しても強調しすぎることはないように思います。
何の罪もない人間が、突如として強制的に未来を奪われる。こんなことが許されていいはずがありません。

さて、では今日の本題に入っていきたいと思います。
なぜ私がこの二つの事件を並べて取り上げたのか。
それは、私にはこの二つの事件の動機の一番基本的な部分が全く同じであるように思えるからです。

奇しくも前回の記事で書いた私たちのコミュニケーションに関する問題が、この二つの事件の根底に見え隠れしています。


前回の記事は別の内容も含んで描かれていますし、無駄な部分が多いので、忙しい人のために簡潔に今回の記事に関係ある話をまとめますと‥‥

私たちは普段、自らを律する様々なルールに従って生活しています。
それは例えば社会的な常識であったり、自らの信念であったり。
そして、それらのルールがあらゆる問題に対する判断を網羅するようになり、問題に対処することがルールを参照するという行為に常に単純化されてしまうとしたら、私たちの生は自動化されたものに成り下がってしまうのではないか。

という問題提起でした。

以下はあくまで、私の想像による事件の解釈ですので、見当違いな可能性が非常に高いです。ご注意を。

今回の事件を起こした少年たちは今までは、社会的なルールによく順応し、自らをそれに適応させることのできる人間だったのでしょう。
それゆえ、周りの人たちからは「おとなしい」「目立たない」などという印象を持たれていたのではないでしょうか。
しかし、彼らを律する数々のルールは、あくまで、「与えられたルール」であり、自ら納得した上で自分に課したルールではなかったのではないかと思うのです。
それこそ、真に恐ろしい「Auto Life」です。
いつの間にか身についた生活のためのルールを守りながら、ただ時間を消費するだけの人生。
その虚しさに、ある日気づいてしまった。
自分の中に知らないうちに巣食っていた大きな大きなブラックボックス。
なぜそんなものが自分の中にあるのか、それが必要なものなのかを知るために、
彼らはそれを壊してみることを選択した。
それも、一番効果的な方法で。
私たちに与えられた最も強大な社会的ルール。
それは死に関するタブー。
他人を殺すこと、そして自らを殺すこと。
これらのルールを破ることで、彼らは自らの中に巣食ったブラックボックスを破壊しようと思ったのではないでしょうか。


もちろん、最初にも書いたとおり、こんなことが許されていいはずはありません。
こんな幼稚な方法でこの種の問題の解決につながるはずはありません。
でも、少なくとも私には、彼らの行為はそれほど「不可解」とは思えないのです。
だって、あなたは彼らの疑問に究極的な答えを提示することができますか?
「なぜ殺してはいけないの?なぜ死んではいけないの?」
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Auto Life

ご無沙汰しています。毎度毎度筆不精で申し訳ありません。

今年の春休みはエジプト・ギリシャ・トルコの三カ国を旅してきました。
今日はその中で特にエジプトに関する話。
それでも、実際エジプトといっても訪れたのはカイロだけなので、エジプト旅行記というよりは、カイロ訪問記、といったところでしょうか。

まずはいくつか写真を紹介しましょう。
CIMG5321.jpg
まずは最も有名なクフ王のピラミッド
人の大きさと比べてみるとわかるように、その大きさは圧倒的でした。

CIMG5298.jpg
モハメッド・アリ・モスクから望むカイロ市内。
モスクと背景に広がる大都会の組み合わせは私の感覚にはとても新鮮に感じました。

CIMG5398.jpg
カイロのブルーモスク(おそらくブルーモスクといって最も有名なのはイスタンブールにあるものでしょう)のミナレット(尖塔)からのカイロ、イスラム街の眺め

CIMG5404.jpg
イスラム街での風景。

カイロ、この都市は今まで私が訪れたことのある大都市の中で最も衝撃的な都市でした。
描くために茶色以外の色など必要ない町並み。絶え間なく鳴り響くクラクション。溢れかえるほどの人の波。ひどい渋滞。ドアを開けたまま走り、飛び乗らなければならないバス。男性は例外なくひげを生やし、女性はかならずスカーフを身につけ、一日に数回モスクからは祈りの時間を告げる放送が拡声器からけたたましくなりひびく。
このどれもが私にとって今までゆるぎないものだった常識とはかけ離れていて、それどころか、一番根っこの基礎の部分から異なっているんじゃないかと考えさせられる文化でした。

混沌の街、カイロ。
人口一千万人を超えるこの都市は間違いなく世界の大都市のひとつです。
同じ一千万人都市の東京と比べても、その人の密集度は同じかそれ以上、といったところでした。
この街で私が最も感銘を受けたのは、この街では生きることに対して必要とされるルールが私たちの生活に比べて、格段に少ない、ということでした。
東京では以上に集中した人々がスムーズに生活するために、生活のあらゆる場面で、明示的、もしくは非明示的なルールに従って生活しています。(というより、この街に行ったことによりそのことをまざまざと実感させられました。)
それゆえ、カイロでは交通は乱れ、クラクションは鳴り響き、人々の呼びかけや言い争いの声が絶えず町中に溢れかえっています。
最初、私はその状況に驚愕し、少なからず辟易しました。
しかし、少しずつその状況に慣れてくるにつれ、私はこうも考えるようになったのです。
カイロの人々のこういった生き方は非常にエネルギッシュだと。
人と人との関わりあいにおいて、ルールによらない有機的なコミュニケーションを常に基礎におくという事は、非常に非効率的で疲れることのように思います。
しかしそれは人同士のの関係性として、原始的であるがゆえにとても根源的なものでもあると思うのです。
逆に、東京では人と接するありとあらゆる場面に対して、非常に細かなルールが設定され、それを守るだけで合理的に、エネルギーを節約して暮らすことができるようになっています。
別にここで私はどちらがいいとかそういうことを言うつもりはありません。
ただ、実は私たちの生活は知らず知らず常識というルールに縛られ、人との関わりあいの本質を見失いがちである、ということが言いたかっただけなんです。


そして更にもう少しこの話を広げてみるならば‥‥。

私は普段自分の守るべきだと思うルールにしたがって生活しています。
例えば「なるべく人に迷惑をかけない」とか「人の思いを大切にする」などのものです。
誰しもそういったものは持っているのではないでしょうか?
小さい頃は数えるほどしかなかった私のこういったルールも、
成長するにつれて数も増え、複雑化していきました。
そしてそれにしたがって様々な問題に直面した時、単純な答えに辿り着けることも少なくなった反面、
問題に対応することは既存のルールに当てはめて考える作業、という性格も帯びてきてしまうようになりました。
これが更に極端になって、もし全ての判断が常にこういった作業によって決定されるのならば、私の人生は全自動で過ぎていきます。
ずいぶんと奇妙な気がしますね。

もちろん、実際にはそんなことが起こるはずもないし、心配する必要もないのですが、
そうして私たちが何気なく信じている自己の意志の独自性なんてものは、
こんなにも容易に、脆く劣化してしまうのです。

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