日々思うことを、気まぐれに書き記しております・・・。         また、旅行記も書いたりしています。どうぞお楽しみください。

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存在の耐えられない軽さ レビュー

今日は先日読み終えたばかりの小説

 『存在の耐えられない軽さ』  ミラン・クンデラ著/千野英一訳 集英社文庫

のレビューです。

この小説の特徴は、題名にも表されている「存在の重さと軽さ」というメタファーをはっきりとした軸にすえた物語展開です。
全ての登場人物たちはみな、存在の重さと軽さを巡るドラマを通じて描き出されています。

ではその、「存在の重さと軽さ」というのは具体的に何を指す言葉なのでしょうか。
物語の冒頭で著者は『永劫回帰』というニーチェの用語を用いてその意味を説明します。
人生は幾たびも繰り返される、永劫回帰の元でなければ意味を持つことなどできない。
『永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐え難い責任の重さがある。』
『もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現れうるのである。』
しかし続く段落において、その軽さによってわれわれの人生は、自由であと同様に無意味になると述べられています。
そして、著者は次のように問うのです。

『そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?』

この一文こそがこの小説を貫く背骨となる問いです。


全七部構成となっているこの小説。
各部で登場人物が入れ替わる、もしくは場面が転換したりしながら、人間の在り方についての様々なテーマ(性愛、信念、裏切りなど)についての物語が展開していきます。
また、そのテーマに沿って、物語展開とは直接関係ない人物や出来事についてのエピソードが随所に挿入されるところを見ると、果たしてこの小説は一般的な意味での『物語』と呼ぶのにはふさわしくないのではないかと思えてきます。
実際、第二部の冒頭において著者は、
『もし著者が読者に、登場人物が本当にいたと信じ込ませようと努めるなら、それはばかげたことである。その人物は母親の身体から生まれたのではなく、二つの暗示的な文のうちの一つ、あるいは、一つの根源的状況から生まれたのである。』
と、述べるのです。
主人公のトマーシュは『Einmal ist keinmal.』(訳は「一度は数のうちに入らない」。ドイツの諺)という、存在の軽さを暗示する文から生まれた人物で、
その妻テレザは、トマーシュとのドラマチックな再会の瞬間にお腹がぐうぐうとなってしまう、という心と身体の和解しがたい二重性を示す根源的状況から生まれた人物なのだ。
(ちなみに、他方の『暗示的な文』とは『Es muss sein!』(そうでなければならない!)というベートーベンの最後のクヮルテットの最終楽章に登場する文で、小説中では存在の必然性、すなわち存在の重さを暗示する文のことです。トマーシュは作品を通じてこの二つの文の間を幾度も行き来することになるのです。)
なんということか!これはもはや物語ではありえない!!
どうして母親から生まれたのではないという怪物に感情移入することができようか!!

ところが、この登場人物たちは、誰も彼も私に似ているのでした。
誰もが私の思い悩んだことのある、もしくは思い悩むと思われる問題に直面し、
私が考えるかもしれない思考がそこには展開されているのです。

そんな思いを抱く理由が、第五部十三節中のある場面において劇的に示されます。
この節は前節から続いて主人公トマーシュの物語的描写から始まります。
小説後半に差し掛かったこの時点では、トマーシュのさまざまなドラマを『体験』し、ここでは既にトマーシュの置かれている状況をそれなりに感情移入しながら楽しんでいました。
しかし、重さと軽さの間で思い悩むというトマーシュにとって根源的な状況に遭遇し、筆者は突然再び、小説の人物がある状況、文、メタファーから生まれる、ということを宣言し、トマーシュから生きた人間としての地位を奪いとってしまうのです。
そして、著者は更に続けます。
『小説の人物というものは(中略)ある状況、文、メタファーから生まれるもので、その中にまるでクルミの殻の中のようにある種の基本的な人間の可能性が収められている。その可能性というのは、まだ誰もその可能性を見出していないとか、それについて誰もまだ何も本質的なことをいっていないと著者が考えていることなのである。』(アンダーラインは引用者による)
ここの、この小説の真髄が顕に表現されているのです。
続く段落では
『私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である。(中略)そのいずれもが、私がただその周囲をめぐっただけの境界を踏み越えている。まさにその踏み越えられた境界(私の「私」なるものがそこで終わる境界)が私を引きつけるのである。その向こう側で初めて小説が問いかける秘密が始まる。小説は著者の告白ではなく、世界という罠の中の人生の研究なのである。ここまでで結構。トマーシュに戻るとしよう。』(同上)
これほどまでに衝撃的な文に出会うことはなかなか無いでしょう。
普通の小説のように登場人物をつぶさに眺める視点から、小説世界そのものを捉える彼岸の視点へ、目がくらむほどに一瞬の転換。
それに続く小説についての考察は、私がこの小説にひきつけられる理由を見事に説明してくれました。
つまり、私は著者の人生の研究を通じて私の様々な根源的な可能性について思いを馳せていたのです。
そして謎が解決された次の瞬間には、その充足感に浸るまもなく、『ここまでで結構。』と再び小説世界の中へ投げ込まれていました。
なんというスリリングな体験なんでしょうか!!
この一節を読み終えた後はぞくぞくするような興奮がなかなか収まりませんでした。




結局、トマーシュは、重さを選んだのか、軽さを選んだのか?
私たちは存在の耐えられない重さにつぶされるべきなのか?
それとも存在の耐えられない軽さのなかで無意味な人生を送るべきなのか?


あなたの人生に散らばる様々な『根源的な可能性』を垣間見るために、
是非この本をとって、じっくり読んでみてください。
きっと素敵な体験があなたを待っていますよ。
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檸檬のころ レビュー

今回は久々に小説のレビューをやってみようかと思います。

 檸檬のころ/豊島ミホ 幻冬舎文庫

久しぶりに青臭すぎるほどの青春小説が読みたくなって手にとってみた本作、大当たりでした。
だいたい、こういった目的をもって青春小説を買うと、文章の読み心地だったり、主人公のキャラクターだったりで全く感情移入できずに途中で投げ出してしまうことの方が多いのですが、この小説は、最初の数ページを読んだ時点で大丈夫だと確信していました。

だって、私はこの情景を、感情を 「知っている」。

舞台は寂れた田舎の何の変哲も無い高校。
そこの中で、もしくは周りで、ごく普通の日常を送っている人々の姿が、想いが、連作の短編の中で描かれていきます。

あるのはありがちな小さなドラマだけで、ハラハラするような大スペクタクルも涙を誘う悲劇も無い。
それでも、いえ、むしろそれゆえに、この小説は私の心をとても惹きつけてくれました。
どんなに普通に見える人生の中にも確かにある、きらきらと世界が輝いて見えるような瞬間を、この小説は見事に掬い上げています。
それは恋愛の一場面だったり、友情劇の一場面だったり、はたまた、過去の記憶のフラッシュバックだったり。

この小説は、全編通じて現在の一人称視点で書かれています。
ですが、ところどころ挿入される風景描写は、感情のあり方と溶け合っていて、さながら回想をしながら書いているように私には感じられるのです。
それは、私の中で、時間を経て残された記憶は、生々しい感情を失い、それらは記憶の情景の中に光や影としてひっそりと刻み込まれているからです。
そうしてこの小説の描き出す情景は、私が青春時代に抱く郷愁を、強く強く揺さぶったのだと思います。

また、この小説のおもしろさは『短編連作』というところにもあります。
それぞれの短編の登場人物が別の短編にも登場するという仕掛けは連作の短編にはよくあるものだと思いますが、この作品ではその仕掛けを上手く使うことによって、小説の舞台である『北高』を非常に立体的に、リアリティを持たせて浮かび上がらせることに成功しています。
私は読みながら、主人公以外の生徒たちに溢れた、『開かれた』小説世界を自然と楽しんでいました。
こうして、描かれない部分まで世界の広がる小説というのは、やはりとても魅力的な作品の一つの重要な要素なのでしょう。

久々に出会えた傑作青春小説、おすすめです。

限りなく透明に近いブルーを読み終えて

読み終えた後に身震いするような気持ちになりました。こんな体験はそうそうあるものでもないとおもいます。

ってなわけで、以下、ネタばれあります。いやな人は今日の記事は飛ばしてください。




最初から最後まで、描かれるのは主人公とその仲間たちの麻薬や乱交パーティなどの破天荒な生活の風景だ。
そんな、一言で言ってしまえば、「しょーもない」行いが、どこか距離感のある、醒めた視点で描かれていく。
腐敗した食物、昆虫の体液、吐瀉物、流血、精液など、普通、目を向けることさえ憚られるようなものばかり描写されているのに、この作品が新人賞を受賞した際の選考委員達は揃ってこの作品を「清潔」と評したそうだ。私はこの評に大いに共感する。なぜかというと、この作品は、汚物の類ばかりを描きながら、その描き方は常に単純に写真のように「描写」することのみを目的としていて、そこに全体性や、意味性を付加することがないのだ。それにより、逆説的にその文体はどこか静かな清潔さを手に入れているのだ。
そして、その傾向はクライマックス付近の、主人公が激しい幻覚に襲われる場面で最高潮に達する。現実に存在する女性の顔や、部屋の風景が、どんどんと現実性を失っていき、ついには完全に全体性、意味性を失った単なる部分の集合へと崩壊(ゲシュタルト崩壊)してしまう。
しかし、ここで今度は、主人公の体験する幻覚の世界が、これまでこの作品の中ではほとんど感じられなかった意味性や全体性(言い換えるなら物語性)を、生々しい蠢くような感触とともに生じ始める。
例えるなら、私は、ここまで静寂の支配していたこの作品の物語世界が、ここのあたりで突然、ぎりぎりと軋むような不協和音をたてながら動き始めるような気がしていた。

そして、主人公はその幻覚の中で、窓の外の空を覆う、巨大な黒い鳥の存在に気づき、戦慄するのだ。

幻覚から醒めた主人公は思う。自分たちはいつだってこのわけのわからない巨大な黒い鳥に飲み込まれ、その中で生きているのだと。そしてそれは死ぬまで続くことだということを。
しかし、そのことに気づいた主人公は同時に、自らのそばに常にあり、その中に包まれていた、美しい存在のことを自覚する。そして自らは「限りなく透明に近いブルー」となり、その美しい存在を映し、他に人々に見せることのできる存在になりたいと願う。





読み終えた瞬間、あまりに共感する部分が多く、今までどんなに頑張って伝えようとしてもうまく伝えられなかった色々なことが、こんなにも鮮やかに伝えられてしまうことに、嬉しく思いながらも、愕然としました。
メッセージと物語、そして文体。それらが見事にそれぞれの関係性から意味を生み出し、一つの作品として結実させることのできる一つの証明として、私にとってこの作品はこれから深い意味を持った作品になると思います。





「とにかく今何もしたくないんだ、やる気みたいのがないからなぁ」
「昔はいろいろあったんだけどさ、今は空っぽなんだ、何もできないだろ?からっぽなんだから、だから今はもうちょっと物事を見ておきたいんだ。いろいろ見ておきたいんだ」
    ―作中のリュウの台詞より―

最終兵器彼女

一気に読みました。全7巻。

なんていうか、もう、とってもかわいくって、

ただただしあわせになってほしいのに、

しあわせになんてなれなくって

なる余裕なんかもうなくって、


ただふつうに愛したいだけなのに

ぶきようで、こんがらがって、ぜんぶだめんなっちゃって



それでも、さいごのさいごまで

お互いがだいじで

愛し合って、なくなって





それならしあわせだったのかな?



ねぇ。。。



もう、どれだけ泣かせたら気が済むんだよ。。。。

こんなに泣いたの、いつぶりかな。



でも、ありがとう。ほんとうに。



あんなに悲しかったのに、今はしあわせな気持ち。

あなたの笑顔がすぐそばにあることのだいじさ、

きらきらしてるようなすばらしさを

しっかりと思い出させてくれる漫画でした。




追記


Travis「Flowers In The Window」「Dear Diary」(From “The Invisible Band”)
こんな歌をともに、いかがですか?

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