日々思うことを、気まぐれに書き記しております・・・。         また、旅行記も書いたりしています。どうぞお楽しみください。

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逃げ水花火

休日なので仕事に一段落ついた九時前に学校を出た今日の帰り道、
どこか遠くから地鳴りのような音が響いていました。
珍しくキャンパスの隣の競技場の照明が灯されていたので、
今日はサッカーの試合でもあって音がするのかな、なんて思いながら自転車をこいでいました。

するとふっと遠くに小さくまるく光るものが。
その瞬間に、今日が江戸川の花火大会だったことを思い出しました。
暗闇に浮かんだ不思議な陽炎のように、はかなく消えてしまった光。
それは近くで見る大迫力の花火とはまた違った、物憂げな美しさを湛えていました。
その後も続く遠くからの残響に誘われるように、そこらじゅうで花火の見えるところを探しましたが、
なぜかもう二度とはその光を見つけることはできませんでした。

とても物足りなくて、さみしい花火見物でしたが、なんだか実はこんな感情こそが夜空に一瞬で燃え尽きてしまう花火の美しさにはふさわしいような気がする八月の始まりの夜でした。
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雨上がり

三日ほど続いたぐずついた天気もひと段落し、
今夜は薄くかかった雲の上で明るく月の輝くいい夜ですね。

帰り道の雑木林からは雨のせいで濃くなった草と土の香りが立ち上り、
日付が変わるまで続いた作業で興奮していた神経をやさしく鎮めてくれました。

この香りは、その昔私がもっと小さかった頃に毎日のように嗅いでいた香りの一つ。
故郷の思い出はいつも私の気持ちを、そっと軽くしてくれるのです。

Travis 2009/2/27 東京国際フォーラム ライブレポート

先月27日に行われたTravis来日公演@東京国際フォーラムに行ってきました。

今回は新作『Ode To J.Smith』のリリースに伴う10年ぶりの来日公演。
前作『The Boy With No Name』での名作『The Man Who』の雰囲気への回帰からは一変して、ギターロックの王道を目指したような作風の最新作には正直少しガッカリしていた面もあった私は、期待と不安の入り混じった気持ちでライブ会場に向かいました。

ライブは定石どおり、新作の一曲目「Chinese Blues」から始まりました。
さらに新作の二曲目へとつながり、新作中心のライブ構成なのかな~、と少しテンションが下がり気味。
しかし、三曲目に前作のキラーチューン「Selfish Jean」で会場は一気にヒートアップ!
私もこの展開には踊りださずにはいられませんでした。
さらにその次には『The Man Who』のオープニングを飾る珠玉の名曲「Writing to Reach You」が!
一体今まで何度聞いたか分からないあのフィードバックノイズが響き渡る時には、既に私は全身が感動と困惑の入り混じったような不思議な感情に満たされ、総鳥肌立ちの状態でした。
そしてこの曲が終わる頃には、静かに広がり、やさしく包み込んでくれるようなフランの歌声に深い安心と懐かしさを感じることができていました。


結局、全編を通じて新旧の曲を満遍なく取り混ぜたバランスのいいセットリストでした。
途中には客席に下りて歌うなどのパフォーマンスもあり、遊び心も感じさせてくれましたが、
そんな行動や、バスドラムに飛び乗ったりするなどのステージングの様々な様子から、彼らの
 「ロックンロールへの憧れ」
を色濃く感じることができました。
思えば、ファーストアルバム収録曲に「All I Want to Do Is Rock」なんて曲があったり、彼らは実はずっと“まっとうな”ロックンローラーに憧れて音楽を続けているのかもしれません。
そんな彼らですが、二作目『The Man Who』の成功により彼らの求めるところとは少し違うところにある深い魅力を世界に認められてしまいます。
私は最初、そのことは彼らにとっては少し不幸なめぐりあわせだったのかもしれないとしれないと思っていました。

しかし、そんな考えはこのライブを最後まで楽しんで、微塵も感じなくなりました。
彼らは間違いなく、自分たちに求められているものを自覚し、それを受け入れた上で自分たちのやりたいことも自信を持ってやっている。それを確信することができたのです。
そうすると、不思議なもので、新作からの曲も毛嫌いすることなく素直に楽しめるようになり、ライブから帰ってきた後では『Ode To J.Smith』は私のヘビーローテーションになっていたりします。


少し話が脱線しましたね。ライブレポートに戻りましょう。
今回のライブのハイライトは間違いなくアンコールにありました。
アンコール二曲目の『Flowers In The Window』はなんと、マイクやアンプを一切使わない、生歌とアコギのみでの演奏でした。
東京国際フォーラムという非常にロックのライブとしては非常に音響のいいホールだからこそ可能だったこのパフォーマンス。
それまでは二階席だったこともあり、今ひとつ音圧が低く、音に没頭することができずにいました。しかし、増幅されない生の歌声を静まり返ったホールで聞くことにより、逆にフランの歌声の深さ、広さを存分に味わうことができました。
さらに、この曲はTravisの曲の中でも最も好きな曲のうちのひとつで、静かに堂々と響き渡る音色に、いつの間にかぼろぼろと涙を流していました。
ライブで感極まって泣いてしまったことは今までに何度かありますが、(特に最近はそういった事が多い気がします)ここまで自然にぼろぼろと、あったかい気持ちになる涙が出たことはなかったような気がします。
そしてライブ最後の曲は「Why Does It Always Rain On Me ?」
ライブを締めくくるのにふさわしいTravis史上最高の名曲です。
2002年のSummer Sonic以来ようやく聞けたこの名曲に安堵し、全身でたっぷりと味わいました。
最後はフランの呼びかけで"POGOダンス"(曲にあわせて会場全体がジャンプ!)で一体感を味わい、夢のような気分の中でライブが終了しました。


こうして今回のライブを通じて深く深く実感したのは、

Travisはいつでも私を一番そばで支えてくれていたバンドだった

ということでした。

去年はRadioheadやSigur rosなど、私の中で非常に大きな意味を持つバンドのライブに行くことのできた非常に恵まれた一年でした。
そんな経験をしたばかりだったからこそ、Travisが私にどれだけ深い安心を与え、どれだけ深い喜びを与えてくれるのかを、より深く実感することになったのです。

ありがとう、Travis!!
最高のライブでした。

春の日、透明な思い出

今日は突然やってきた春の日のように暖かい陽気でしたね。
厳しい寒さが和らいで春がやって来るのは、絡まった紐がほどけていくように心地よいものです。
もしかしたら、木々もそんな風にして、かたくかたく閉ざしたつぼみをほころばしていくのかもしれない、そんなことを考えたりしました。

そんな心地よい陽気に誘われて今日は、ついこの前初めて知った不忍通りの裏道を学校まで歩いていきました。
その道は、蛇のように曲がりくねった(十メートルも直進できないほどなのです!)道で、道路沿いに点在する古い建物たちも相まって、道路整備なんて考えが欠片ほどにも存在していなかった時代の面影を感じ取ることができます。
こんな町並みを見るたびに、私はやっぱりこの町が好きなんだなぁ、と実感するのです。

でも、そんな大好きな町、谷根千もこの二月でお別れです。
だから、私は最近、今日のように天気のいい日はこの町の周辺をよく散歩してまわっています。
例えば先週にも富士見坂という気持ちのいい坂を発見したり、以前から気になっていたスイス料理屋さんに言ってきたりしました。
こうして町のいろいろな風景を目に焼き付けて、町を去るのに後悔を残さないようにしているのです。


こうして私はいつも、何かに別れを告げるときには、悔いの残らないようにきれいな思い出を作り上げようとします。
でも、そうして思い出をきれいに作り上げれば作り上げるほど、私はそれをいとも容易く忘れてしまうのです。
そして結局、心に残った醜い傷跡のほうがよっぽど鮮明な記憶になってしまう。
きれいに磨き上げたいくつもの水晶は、透明すぎてもう見えなくなってしまいました。
それでも思い出をきれいに飾らずにはいられない私は、きっとどうしようもなく愚かなのでしょう。

期待と依存、怒りの根

こんばんは、随分とご無沙汰しています。

年末年始から、卒業前最後のテスト週間と、立て続けの雑務の嵐に、随分と更新をサボってしまってました。大変申し訳ありません。

ようやく一段落しましたので、これからまたぽつぽつと更新を再開していきたいと思います。
見に来てくれた方は、これから見捨てずにたまに覗きに来てくれたらうれしいです。


さてさて、それではそろそろ今日のお話を始めましょうか。

今日のお話は、二つの無関係に思える疑問から始まります。

まず一つ目は私が幾度もここに立ち戻ったことのある疑問で、
「なぜ友人に怒りをあらわにすることなどはほとんど無いのに、恋人や家族にはときどきひどくつらくあたってしまうことがあるのか。」
というもの。

二つ目は、今日友人が昼食時にふとこぼした疑問で、
「私たちの同年代の友人などが理不尽な怒りを他人に向ける姿はほとんど見たことが無いのに、なぜより年長の人々に限って時々、半ば八つ当たりのように思える怒りを私たちに向けることがあるのか。」
という疑問です。

二つ目の疑問については、例えば学生時代の教師やバイト先の上司、研究室の先輩等を思い浮かべていただければ、誰しも一つぐらいは思い当たる節があるものだと思います。
一つ目の疑問はただただ私の経験に関する疑問ですから、もしかしたら皆さんには共感していただけないかもしれませんが、とりあえずこちらもままあることであると仮定して話を進めていきたいと思います。


私が思うに、この二つの疑問を解く鍵は、
「期待と依存」
にあります。


まだ学生生活を送っている私と同年代かそれ以下の年代の方々(そしてそれ以上の年代の方々はかつての学生生活を思い出していただきたいのですが)は、今現在、自らの生活がなるべく他人の影響を受けないように(特に実害を受けない、という意味において)暮らしている方が多いと思います。
なるべく自分ひとりで生活が完結し、他人に依存せず、期待しないからこそ、他人に怒りを向けることも無い生活です。

最近の若者らしく、他人に怒ることも“めんどうだ”と感じる方は特に、こんな暮らしを送っているのではないでしょうか。



ところがこの考えでは、そんな私たちの“平穏無事な”生活が脅かされる場面が幾つか存在するのがわかっていただけると思います。

例えば、不可避の他人との利害の共有が起こる場面。
もっとはっきり言うならば、何かしらの仕事をしている場面です。
高度に組織化された現代の私たちの生産活動において、
ある一つの仕事が徹頭徹尾一人の人間によって行われることは至極まれです。
他人との共同作業で何かしらの仕事にあたる場合、
私たちはその他人の成果に期待ないし依存することを必然的に強いられます。
そんな場面での他人の失敗は、私たちに強烈な失望と不快感を与えることは想像に難くないと思います。
これが最初の疑問の二つ目のものに対しての私なりの回答になります。

そして次の可能性は、私たちが望んで精神的に相手に依存する場面です。
それは、例えば恋人や親類に対して。
こちらが一つ目の疑問に対する私の回答です。
誰かと親しくなろうとする時、多くの場合に相手への依存は必要の無いことです。
それどころか過度の依存は間違いなく健全な人間関係には不要なものでしょう。
けれども、ある一線を越えてさらに親しくなる間柄では、
相手への適度な依存、それが不可避であり、またそれこそが更なる関係の深化の象徴となりうると思うのです。
私たちは普段その依存関係のことを美しい言葉を用いて『信頼』と呼びます。
ところが、約束は破られるものであり、信頼は裏切られるためにあるとも言えるのです。


こうして考えてみると、怒りという感情は、私たちの意外と深いところに根ざしているのかもしれない、と私は思うのです。
私は昔から自分の怒りの感情を嫌っていました。
ほとんど憎んでいたといっても過言ではありません。
しかし、怒りを生まぬよう、他人から離れて生きようとする生活で、
私の感情の根は腐り、感性という名の葉は枯れ落ちました。
私の博愛主義は目隠しをしたまま白旗を振って敵陣に行進していくような愚かな行為だったのでしょう。

他人の怒りまでも愛することはできるのか。
きっと、言うは易し、行うは難しですね。

『可能性』そのあり方とは? その2

なかばコメントがつくのをあきらめていた前回の記事ですが、
面白い突込みをしてくれた方がいるので、今回はそれも踏まえてもう少し問題を明確にしていきたいと思います。

前期時へのコメント(抜粋) Posted by 八坂メグさん

また、現在、過去の「可能性」についての話ですが、過去の~と論している時点で、T+Wさんの考えはやはりどちらも「現在」を軸として考えているように感じられてます。僕は可能性を論じる際に注意しなければならないものとして、ある時間軸のある時点においてその時、その時の視点に立たなければならないということを挙げます。簡単に言うとT+Wさんの考えと僕の考えで決定的に違うのは「視点」です。

僕は普段直観的に感じている、「あの時もしも~だったら」とかは別段におかしいことではないと思いますし、主体性だって幻なんかではないと思っています。



実は以前の記事を書いた後、友人にも全く同様の突込みをされました。。
彼の言葉を借りると、『大過去の私からみた「(現在から見た)過去の可能性」』を論ずることに問題はないと。
たしかに八坂さんと友人の言うとおりなんですよね。
もし私が現在における可能性というものが定義できる(もしくは主体性が確実に存在する)と言い切るならば、過去の可能性もやはり同様に定義できてしかるべきなのです。

つまり、私が疑っていたのは私たちの持つ『(現在の)可能性』さらには人間の主体性、そのものだったということになります。
全くもってばかげたことを言っているように思えますが、こう考えてみるとどうでしょう?

前回の記事で挙げたとおり、私にとっての可能性の定義は
『現在における可能性というのは、後続する時間における私たちのあり方に対する選択の自由度である』
というものでした。
ここで問題になってくるのが、「本当に選択の自由度は存在するのか?」という問いです。

「私たちがある分かれ道で、右に行くことも、左に行くこともできる。」
こういった語り方が可能性というものの基本的なあり方です。
この主張は私たちにとってあまりに当たり前に思えることです。
ところが、よくよく考えてみるとこれはあくまで私たちの「信念」であって、その真偽を確かめることのできない類の主張なのではないでしょうか?
なぜなら、私たちは常に「右に行くことか、左に行くことしかできない。」からです。
あなたがもし右に行ったとすれば、それは世界の決定されたシナリオとして右に行ったのかもしれないですし、左に行ってしまったならば、その時右に行けたかどうかを確かめる術は存在しないのです。

以上が私の考える「可能性」における問題点なのですが、
この議論、実は上で八坂さんが指摘した問題点を再びはらんでます。
ここではやはり現在から見た過去の可能性を論じているのです。

しかし、現在からの視点のみで「可能性」を論じることができるのでしょうか?
実証的な「現在からの視点における現在の可能性」を論じるためには、現在が複数の未来に分岐する世界の重ね合わせであるという(現在における)確かな証拠が存在しなければいけません。
そう考えると、私にとって「現在からの視点における現在の可能性」はあくまで信念である、というように思えるのです。

以上から、私の(とりあえずの)結論としては、
『「可能性」はあくまで経験的に獲得された信念であって、実証可能な事実ではない』
ということになると思います。
なんとも歯切れの悪い結論になってしまいました。
今回もつっこみ、文句等々首を長くしてお待ちしております。

『可能性』そのあり方とは?

今日は少しまじめなお話を。

先日、友人と会話していたときに、私の「がんばる」という言葉に対する特殊な解釈について議論になったことがありました。

例えばある人が大学に合格することを目指して勉強するような状況を考えます。
ある一定期間を受験生として過ごし、ある程度真面目に勉強をしましたが、
その一方で、ついついかなりの時間を遊びに費やしてしまいました。
そしてその結果、その人が大学に落ちてしまったとします。


さて、果たしてこの人は「がんばらなかった」から受験に失敗したのでしょうか?

その時の私の考えでは、答えはノーでした。
一般的な意味で言う「がんばれなかった」も、結局はその人の実力のうちであって、
それも含めて『がんばった』結果としてこの人は大学に落ちたのだ。
というのが私の考えだったのです。

今でもこの考えが根本的に問題があるとは思っていないのですが、
私の思考の問題は「がんばらなかった」という言い分に対する違和感を、
「がんばる」という言葉の解釈の変更によって解消しようとした点にあります。

わたしが使った『がんばる』の意味の説明において「がんばる」という言葉
(「」と『』によって区別させてもらっています。)
の意味を使っていることからもわかるように、やはりこのがんばるという言葉の意味の拡張は無理矢理だったのでしょう。


それでは、私が感じた違和感の原因は結局なんだったのでしょうか?

私は、頑張らなかったから失敗した、という言い分が内包している、
もしあのとき頑張っていれば成功した、という主張にこそ問題があるように感じます。

端的にその問題点を指摘するならば、
過去に対して可能性を持ち出すこと、それが問題なのです。

ではなぜ、過去の可能性を考えることに問題があるのでしょうか。

まずは、現在における可能性という考え方の規定から始めましょう。
(論点を明確にするために、ここでは私たち、主体的な意識を持つと考えられているものたちの可能性について話を限定したいと思います。)

『現在における可能性というのは、後続する時間における私たちのあり方に対する選択の自由度である』

この規定は、一般的な「可能性」という言葉に対する直感を説明したものとしては十分なように思えます。

ここで、過去の可能性を考えることに関する問題点が明確になっています。
『可能性』という言葉の本質は選択に対する自由度なのであって、
既に過ぎ去り、二度と再現されることのない(永劫回帰のない)状況に対して『可能性』を考えることはできないのです。
あるのはただ確定した事実のみであり、そこに選択の余地はありません。
それゆえ、『過去の可能性』などという考えは明らかな誤りなのです。


私は、以上のような考えで私の違和感の原因を説明し尽くしたかのように考えていました。


しかし、『過去の可能性』は、次のようにも定義できるのです。
『過去の可能性というのは、過去のある時点において存在していた、それに後続する時間における私たちのあり方に対する選択の自由度である。』
上に挙げた『現在の可能性』が問題ない定義であるならば、この『過去の可能性』も同様に問題ない定義となるはずなのは明らかです。


そうすると、この議論には明らかな矛盾が存在するのです。
問題は私が行った『現在の可能性』の定義にあるのでしょう。

それでは、私たちが直感的に信じる『可能性』ひいては『主体性』は幻なのでしょうか!?
私の思考はここで行き詰まってしまいました。
それで、いろんな人の意見を聞いてみようとブログに投稿してみた次第です。

皆さんのコメントをおまちしてます!

雨のち…

昨日はあの後、天気予報通りに雨が降りましたね。
この時期にしては強い雨と風に、よく乾いた落ち葉たちはみなしっとりと湿ってしまい、
きれいに色づいた銀杏の葉たちはそのほとんどを散らしてしまいました。

昨日の夜、10時ほどに図書館を出て家に帰るときは、
足元の柔らかい感触と、湿った足音に気持ちが沈んでいました。


ところが今日学校に行ってみると、そんな気持ちは一気に吹き飛んでしまいました。

銀杏並木の道一面に広がる鮮やかな黄色のじゅうたん。

季節はずれの強い雨が一気に葉を落としてしまったために
黒ずんでしまった葉っぱはほとんど無く、
雨に湿った落ち葉はぴったりと地面に張り付いて、
まるで本当のじゅうたんのようでした。


本来ゆっくりと散っていく葉っぱたちをたったの一晩で全て散らしてしまってこそ実現される、とっても贅沢な美しさでした。


そして銀杏の葉を散らす昨日の雨と風こそが、
本格的な冬の到来の知らせとなったのでしょう。

大学生として最後の秋の終わりは、とても豪華な光景で私の心に焼き付けられました。

さくさく ひらひら 秋の昼休み

さくさく さくさく

最近大学には落ち葉がいっぱい。
この時期の程よく乾いた落ち葉を踏むときの音が私は大好きです。
今日もついつい落ち葉のたまったところにちょっと寄り道して、
すこし歩幅を小さくして、さくさくさくさく、楽しんできました。

ひらひら ひらひら

今日は風が強いので、またたくさんの踏みごろな枯れ葉たちが落ちてきています。
銀杏の葉っぱは踏んでもおもしろくないけど、
ようやくきれいに色づいた鮮やかな黄色が風に吹かれてひらひらと舞い落ちてくる姿は、
一ヶ月前の困ったにおいを差し引いても、やっぱりすばらしい。


なんでこんな真っ昼間からブログを更新しているのかというと、
午後からの雨はきっと、
さくさくの落ち葉を湿らせてしまって、銀杏の葉っぱも散らしてしまうから。

そうしたらもうきっとこの気持ちもしぼんでしまって、
また来年まで出会うことはないでしょう。
だからその前にこの感情を、とにかくつなぎ止めておきたかったのです。

ヨーロッパ旅行記 東欧周遊編 ブダペスト その3

二週間ぶりくらいになりますが、今日は旅行記の更新です。

久しぶりの旅行記ですので、今日は盛りだくさんでいきますよ!!

今日紹介するのは…
・ハンガリー国会議事堂
・聖イシュトバーン大聖堂
・英雄広場とアンドラーシ大通り
というペスト地区を代表するランドマークたちです!

目に鮮やかなブダペストの名所たちをぜひゆっくり見ていってください。

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Be a Bright Blue / Saxon Shore レビュー

今日は音楽レビューです。

紹介したいのは、以前当ブログでも話題に上げたことのある
アメリカのポストロックバンド、Saxon Shoreの1stアルバム『Be a Bright Blue』

以前は3rdフルアルバムである『The Exquisite Death of Saxon Shore』を紹介しましたが、
1stはその3rdとは少し趣を異にするアルバムです。

このアルバムは全体を通じてリラックスした雰囲気の漂うアルバムですが、
なんと言ってもこのアルバムの必聴ポイントは、
Matt Dotyのギターと、この1stだけに参加しているJosh Tillmanのドラムの絶妙な掛け合いでしょう。

Saxon Shoreのサウンドの中心であるメロディアスでメランコリックなDotyのギターは本作でも遺憾なく発揮されているのですが、その後に発表された2ndや3rdと異なっているのは、
まるでDotyの奏でるギターの旋律と対を成すかのようにメロディアスなTillmanのドラムの存在です。
軽妙なTillmanのドラムが全体を通じて自然な緊張感を与えてくれています。

例えば本作二曲目の『Replacement Drivers』
静謐で冷たいギターのアルペジオから幕を開けます。
次第に華やかさを増していくドラムに呼応するかのようにギターの旋律も次第に鮮やかに色づいていきます。
そして、一旦のブレイク。
その後は打って変わってドラムが曲を牽引していきます。
再び控えめのリズムからギターとの呼応を経て、どんどんと華やかさを増すドラム。
歌うようなTillmanのドラムの魅力が余すことなく発揮される珠玉のパートです。
最後には共に輝きを増しながらクライマックスへとなだれ込んでいきます。


この曲に端的に表れているのですが、
確かにこのアルバムには、例えば3rdの一曲目『The Revolution Will Be Streaming』に見られるような思わず目を細めてしまうほどに眩しいクライマックスの場面はありません。

しかし、このアルバムは私にとって、
まるで初夏の日差しの中のそよ風のふく木陰のような、
そんな心安らぐ場所となってくれるのです。
たとえ激しい盛り上がりが無かったとしても、
優しい風に吹かれることは決して退屈ではないのです。


疲れた時は、こんなアルバムに耳を傾けて、ほんの少しだけゆっくりしてみてください。
ちょっとだけ、気持ちが楽になるかもしれませんよ?

存在の耐えられない軽さ レビュー

今日は先日読み終えたばかりの小説

 『存在の耐えられない軽さ』  ミラン・クンデラ著/千野英一訳 集英社文庫

のレビューです。

この小説の特徴は、題名にも表されている「存在の重さと軽さ」というメタファーをはっきりとした軸にすえた物語展開です。
全ての登場人物たちはみな、存在の重さと軽さを巡るドラマを通じて描き出されています。

ではその、「存在の重さと軽さ」というのは具体的に何を指す言葉なのでしょうか。
物語の冒頭で著者は『永劫回帰』というニーチェの用語を用いてその意味を説明します。
人生は幾たびも繰り返される、永劫回帰の元でなければ意味を持つことなどできない。
『永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐え難い責任の重さがある。』
『もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現れうるのである。』
しかし続く段落において、その軽さによってわれわれの人生は、自由であと同様に無意味になると述べられています。
そして、著者は次のように問うのです。

『そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?』

この一文こそがこの小説を貫く背骨となる問いです。


全七部構成となっているこの小説。
各部で登場人物が入れ替わる、もしくは場面が転換したりしながら、人間の在り方についての様々なテーマ(性愛、信念、裏切りなど)についての物語が展開していきます。
また、そのテーマに沿って、物語展開とは直接関係ない人物や出来事についてのエピソードが随所に挿入されるところを見ると、果たしてこの小説は一般的な意味での『物語』と呼ぶのにはふさわしくないのではないかと思えてきます。
実際、第二部の冒頭において著者は、
『もし著者が読者に、登場人物が本当にいたと信じ込ませようと努めるなら、それはばかげたことである。その人物は母親の身体から生まれたのではなく、二つの暗示的な文のうちの一つ、あるいは、一つの根源的状況から生まれたのである。』
と、述べるのです。
主人公のトマーシュは『Einmal ist keinmal.』(訳は「一度は数のうちに入らない」。ドイツの諺)という、存在の軽さを暗示する文から生まれた人物で、
その妻テレザは、トマーシュとのドラマチックな再会の瞬間にお腹がぐうぐうとなってしまう、という心と身体の和解しがたい二重性を示す根源的状況から生まれた人物なのだ。
(ちなみに、他方の『暗示的な文』とは『Es muss sein!』(そうでなければならない!)というベートーベンの最後のクヮルテットの最終楽章に登場する文で、小説中では存在の必然性、すなわち存在の重さを暗示する文のことです。トマーシュは作品を通じてこの二つの文の間を幾度も行き来することになるのです。)
なんということか!これはもはや物語ではありえない!!
どうして母親から生まれたのではないという怪物に感情移入することができようか!!

ところが、この登場人物たちは、誰も彼も私に似ているのでした。
誰もが私の思い悩んだことのある、もしくは思い悩むと思われる問題に直面し、
私が考えるかもしれない思考がそこには展開されているのです。

そんな思いを抱く理由が、第五部十三節中のある場面において劇的に示されます。
この節は前節から続いて主人公トマーシュの物語的描写から始まります。
小説後半に差し掛かったこの時点では、トマーシュのさまざまなドラマを『体験』し、ここでは既にトマーシュの置かれている状況をそれなりに感情移入しながら楽しんでいました。
しかし、重さと軽さの間で思い悩むというトマーシュにとって根源的な状況に遭遇し、筆者は突然再び、小説の人物がある状況、文、メタファーから生まれる、ということを宣言し、トマーシュから生きた人間としての地位を奪いとってしまうのです。
そして、著者は更に続けます。
『小説の人物というものは(中略)ある状況、文、メタファーから生まれるもので、その中にまるでクルミの殻の中のようにある種の基本的な人間の可能性が収められている。その可能性というのは、まだ誰もその可能性を見出していないとか、それについて誰もまだ何も本質的なことをいっていないと著者が考えていることなのである。』(アンダーラインは引用者による)
ここの、この小説の真髄が顕に表現されているのです。
続く段落では
『私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である。(中略)そのいずれもが、私がただその周囲をめぐっただけの境界を踏み越えている。まさにその踏み越えられた境界(私の「私」なるものがそこで終わる境界)が私を引きつけるのである。その向こう側で初めて小説が問いかける秘密が始まる。小説は著者の告白ではなく、世界という罠の中の人生の研究なのである。ここまでで結構。トマーシュに戻るとしよう。』(同上)
これほどまでに衝撃的な文に出会うことはなかなか無いでしょう。
普通の小説のように登場人物をつぶさに眺める視点から、小説世界そのものを捉える彼岸の視点へ、目がくらむほどに一瞬の転換。
それに続く小説についての考察は、私がこの小説にひきつけられる理由を見事に説明してくれました。
つまり、私は著者の人生の研究を通じて私の様々な根源的な可能性について思いを馳せていたのです。
そして謎が解決された次の瞬間には、その充足感に浸るまもなく、『ここまでで結構。』と再び小説世界の中へ投げ込まれていました。
なんというスリリングな体験なんでしょうか!!
この一節を読み終えた後はぞくぞくするような興奮がなかなか収まりませんでした。




結局、トマーシュは、重さを選んだのか、軽さを選んだのか?
私たちは存在の耐えられない重さにつぶされるべきなのか?
それとも存在の耐えられない軽さのなかで無意味な人生を送るべきなのか?


あなたの人生に散らばる様々な『根源的な可能性』を垣間見るために、
是非この本をとって、じっくり読んでみてください。
きっと素敵な体験があなたを待っていますよ。

ヨーロッパ旅行記 東欧周遊編 ブダペスト その2

今日は久々の旅行記の更新です。
今回はブダペストの二回目。
紹介するのはペスト地区の目抜き通り、ヴァーツィ通りの様子です。

今回の見所は

・伝統と格式の美しき高級カフェ、ジェルボー。
・ペスト市街地の独特の雰囲気を持った美しさ。

といったところです。
今回はいつにも増して写真中心の記事ですので、気軽に見ていってください。

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紅葉と紅陽

今週末は地元に帰省しています。

午前中の雨がやんで外に出てみると、
家の庭に植わっているもみじが綺麗に紅葉していました。

東京で私が毎日自然に触れる機会の唯一のものである大学の木々は、
大学のシンボルマークに象徴されるように銀杏ばかりです。
それゆえ私が目にしうる秋の兆候はただ染まりゆく黄色だけでありました。

そんな日々の中で突然私の前に現れた鮮やかな赤。
ただでさえ紅葉のうちで最も美しいのはもみじの燃えるような赤であると思う私にとって、そのこうけいはとても衝撃的でした。

だんだんと気温が下がり、秋から冬へ季節がうつろっていくのを、日々増していく服の厚さに感じてはいても、
今年のそれはどこかはっきりしない、連続的なもののように感じていました。
しかし、この紅葉の赤は突然はっきりと現れた季節の兆候。
一瞬にして一年の中で今がどのような時候にあたるのかを感じ取るのは、まさに目が覚めるような体験でした。
そしてそのときに感じたこと、

紅葉の赤、それは秋の夕日の象徴。

今日みたいな曇り空の下でも、紅葉の赤はその向こうで燃えているはずの大きな夕日の存在を確信させてくれるし、
晩秋の最も美しい瞬間である夕暮れのひとときは、その溢れるような茜色の中にとけていく紅葉によって、よりその美しさを際立たせるように思えるのです。

だからこそ、私はやはり紅葉は鮮やかな赤こそが素晴らしいと思うのです。
皆さんはいかがですか?

東京さんぽ

今日は先日の日曜日の話です。

午後三時、寝坊した私はようやく学校の図書館の前にやってきていました。
ほんの数台しかとめられていない駐輪場、電気のついていない図書館。
なんだか寂しげな雰囲気が漂うのは曇り空のせいだけではありませんでした。

『本日休館』

図書館の前に申し訳なさそうに、しかしはっきりと張り出されたこの四文字を見て、
私はこの日を東京散策に費やすことを決意しました。

目的地は皇居。
東京に出てきてはや四年、実は私は皇居をしっかりと見たことがありませんでした。
そんなわけで、この日の目標は自転車による皇居一周ということに決定。
肌寒さの一層強くなった秋の曇天の下、颯爽と空気の抜けた自転車を漕ぎ出しました。

思い付きでの決定なので地図なども持ってるはずは無く、
たまにある道路標識だけを頼りに皇居を目指しました。


・秋葉原
まず、最初に通過したのは秋葉原。
休日の秋葉原、さすがの盛況っぷりでした。
歩道には人が溢れ、ぼろいママチャリで車道を行くのはなかなか恥ずかしかったです。
美少女キャラクターの大きな看板の下に人が群がっている姿は、
今の東京の象徴の一つとも言える風景でした。

・神田
続いて通過したのが神田駅周辺のガード下。
ものものしい鉄橋の薄汚れた姿には昭和の雰囲気が漂います。

・日本橋
もともと東京駅を目指していたのですが、途中から気が変わり、道路標識に従って日本橋までやってきました。
東海道の始点であり、日本の道路の始点と言っても過言ではない日本橋。
ここも私は初めて訪れる場所でした。
まず驚いたのは、この周辺の建物の建築様式。
明治、大正期の西欧建築を模した堂々たる建築がところどころに残され、
新たな東京の一面を垣間見ることができました。
三井本館、日本銀行、日本橋三越など、どれも一見の価値ありです。
そして日本橋。
日本橋自体を初めて見たことによる感慨もありましたが、
それより衝撃的だったのが、日本橋の上を垂直に交わり、川の上を行く首都高速道路。
歴史的な景観をぶち壊してるのは言うまでもなく、
なんと川の上を行く道路という、グロテスクとも言えるような光景。
(その後の散策でもこの周辺の多くの川の上に高速道路が走っていました。)
高度経済成長時代のなりふり構わないパワフルさ、
脂ぎった時代の雰囲気を目の当たりにした気分でした。

・丸の内
日本橋から皇居の方に向かいながら、今度は目の覚めるような美しい高層ビルの林の中を抜けていきました。
ただ高いだけのビルではなくて、個性的なビル(堂々としていたり、繊細であったり、優美だったり、力強かったり、奇抜だったり)がいくつもあって、目を楽しませてくれました。

・皇居
幾つかの回り道や、迷い道を経て、ようやく皇居に到着しました。
大手門についたのが午後四時ごろ。
東御苑の閉園時間ぎりぎりだったので、少しだけ中を見てみることにしました。
が、しかし。
ほんとに閉園時間ぎりぎりだったため、十分ほど公園のような部分を歩いて管理の人に追い出されてしまいました。
中は結構広く、よく整備された公園になっていたので、
次回はもう少しゆっくり時間をとってまわってみようかと思いました。

そしてそれからようやく本来の目的の皇居一周。
日曜日だったからなのか、遊歩道では非常に多くの方がランニングをされていました。
彼らの邪魔にならないよう早すぎず遅すぎずのペースを保ちながら皇居を一周。
今まで見てきた皇居の断片的な映像が、頭の中で地図として組みあがっていく感覚はなかなか楽しいものでした。
最後に立ち寄ったのが正門。
正門の前には非常に広大な敷地が用意され、さすがは天皇の宮殿、といった雰囲気。
そこにかかる二重橋の美しさも素晴らしかったので、
ぜひ近いうちに一般参観の申し込みをして内部を見学しに行きたいと思いました。

それにしてもびっくりしたのは、半蔵門周辺のお堀の深さ。
だいたいビル3~4階分ぐらいはあろうかという高さなのですが、
そのほぼ崖のような斜面には低い柵しか設けられておらず、
自転車をこぎながら下を覗き込むと(そうすると必然的に自転車は柵の方に曲がっていってしまうのです)、非常に恐ろしかったのが印象的でした。


思いつきではじまったこの日の散策でしたが、様々な時代の東京の姿を垣間見ることのできた、思った以上に収穫のある散策になりました。
どの時代の東京もそれぞれ個性的な魅力があって、それらがモザイクのように複雑に入り組んで足跡を残しているこの街、東京。
世界の様々な大都市にも引けをとらない魅力のある街だと認識を改めさせられる日曜日でした。

Sigur ros 10/25 STUDIO COAST ライブレビュー

『世界で最も美しい音を奏でるバンド』

彼らのことを紹介するときに最もよく使われる表現です。
私にとってもSigur rosをその言葉で表現することに全く違和感はありません。
しかし、今日のライブは、Sigur rosがただ『美しい』だけでない、
もっともっと力を持ったバンドなんだということをあらためて実感させられる、非常に素晴らしいライブでした。

彼らのアルバムはどれを聞いていても、まるで、一つの物語を見ているような、そんな気分にさせられることが多いですが、
今日のライブは、その物語に自分も参加しているような、そんな素晴らしい気持ちにさせてくれるライブでした。

以下、私のブログ史上おそらく最長のライブレビューになっているので、
心して続きを読んでいただけると幸いです。

以下、本レビューより抜粋。

「すごい演奏だから楽しめるんじゃない、手拍子であわせるから楽しいんじゃない、一緒に楽しむからライブは最高なんだ!」

それでは、続きを読む、をれっつクリック!!


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ヨーロッパ旅行記 東欧周遊編 ブダペスト その1

みなさんこんにちは。

実は最近、少しだけこのブログ、周辺整備をしています。
連絡用のメールアドレスを用意したり、ブログランキングに参加してみたり。

もっと多くの人とつながりがほしくなってやってみました。
てなわけで、相互リンク大募集中です!
少しでも当ブログに興味を持っていただいた方はお気軽に声をかけてくださいね!


それでは、本題の旅行記です。

今回は‥‥

・ウィーンからブダペストへの電車の旅
・西欧とは趣の異なったブダペストの町並み
・ブダペストのシンボル、王宮の丘とくさり橋

などを紹介していきたいと思っています。

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僕らのミライへ逆回転 映画レビュー

今日、渋谷シネマライズでミシェル・ゴンドリー監督・脚本の

『僕らのミライへ逆回転』(原題 Be Kind Rewind)

を見てきました。
結論から言うと、

最高に笑えるけど、しっかりと一本筋が通っている傑作コメディ映画でした!

近々映画を見る予定がある方はぜひぜひこの作品を見に行っていただきたい!

もともと私がこの作品に興味を持ったきっかけは、
監督・脚本がミシェル・ゴンドリーだった、という点によってです。
ミシェル・ゴンドリー監督の代表作といえば、
『ヒューマン・ネイチュア』(2001)、『エターナル・サンシャイン』(2004)、『恋愛睡眠のすすめ』(2006)
などがあります。
このうちで、私が実際に見たのはエターナル・サンシャインだけなのですが、この作品は話の軸になるアイディアの面白さと、斬新な映像の使い方が印象的だったのを覚えています。
また、彼は非常に優れたミュージックビデオ監督でもあります。
私がこの監督に注目する理由はむしろこの理由によるところが大きいです。
Chemical Brothers,Bjork,Daft Punk,Radiohead等、様々なアーティストのビデオクリップを手がけているのですが、そのうち私が実際に目にしたのは、
Chemical Brothers 『Star Guitar』

Radiohead 『Knives Out』

の二作品です。
『Star Guitar』はシンプルな構成とアイディアながら、曲の持つトリップ感が上手く映像とリンクした佳作。
そして、『Knives Out』、どこかかわいらしい印象の映像で最強にグロテスクなブラックユーモアが展開されます。このドリーミィでありながら、まるでその夢に囚われながら錐揉み回転で深い深い闇の底まで落ちていくようなイメージは、この『Knives Out』の世界をそのまま映像化したかのような素晴らしいもので、映像と音楽、それによって一つの完全な作品であるかのようです。
この二つの素晴らしい作品によってもまた、ミシェル・ゴンドリー監督への興味をそそられていました。

ところで、今回は今まで見た作品とは少し毛並みの違う、コメディ映画。
あらすじは以下のような感じ。

舞台はアメリカの田舎町。街の再開発計画によって取り壊し寸前のビデオ店に勤める青年が、店長の旅行中の店番を頼まれます。そこにトラブルメーカーの友人がやってきて、ひょんなこと(体が磁気を帯びてしまうというトンデモな理由!)からお店のビデオの中身を全て消してしまいます。仕方が無いので、自分たちで映画をリメイクしてごまかせ!ってなわけで作った映画がだんだんと人気になってきて‥‥。

といった話。『ゴーストバスターズ』や『2001年宇宙の旅』など、さまざまなハリウッド映画のチープな爆笑リメイク映像は必見!!
気になった方はまずは公式ホームページ僕らのミライへ逆回転をご覧になってください。


以下はネタばれ込みの感想。映画をまだ見てない方はご遠慮ください。

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ヨーロッパ旅行記 東欧周遊編 ウィーン その4

みなさんこんにちは。
日に日に寒さも増して体調を崩しやすい時期ですがいかがお過ごしでしょうか。
ちなみに私は今日、肋骨にヒビが入っていることが判明して驚いたりしています。
みなさんも体調管理には気をつけてくださいね!

それでは、今日も旅行記の続きです!
今回はウィーン編の最終回。

・老舗カフェ「ハヴェルカ」
・世界三大劇場の一つ、ウィーン国立オペラ座の内部の様子

を紹介したいと思います。
特に、オペラ座は内部の見学ツアーではなくて、実際にオペラを見に行った際の様子ですので、華やかなウィーンの夜の姿をぜひご覧になってください!

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ヨーロッパ旅行記 東欧周遊編 ウィーン その3

久しぶりの旅行記更新です。

今日もウィーンの様々な風景を紹介したいと思います。

今日紹介するのは…

・ネオゴシック様式の壮麗な教会や市庁舎
・王宮庭園のさわやかな風景
・世界有数の美しい図書館、プルンクザール

などです。

‥‥、あと今回は、最後にはちょっとえっちぃお楽しみも用意しておきました☆

それではどうぞ、お楽しみください!

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常識と非常識の狭間

昨日家庭教師に行って夕飯をご馳走になっていた時の話です。
私の生徒のお兄さんは現在美容師を目指して勉強中なのですが、
そのお兄さんの友人がある美容室の採用試験に行った時の話。

その美容室はシャンプーからカット、パーマやスタイリングなど、
全ての行程を一人の美容師の人が行うというちょっとかわった美容室だそうで、
写真家やファッションスタイリストの方たちともつながりのある、
どちらかというとアートよりな雰囲気を持つ美容室なようです。

その採用試験でされた質問の中で話題に上がっていたのが、

「私たち(美容師さん)は常識と非常識の間で仕事をしていますが、そのことについてどう思いますか?」

という質問でした。

質問としてはあまり適切な類のものではないと思いますが、
個人的に興味を惹かれたのでここでこの質問について少し考えていきたいと思います。

質問を額面どおりに受け取って当たり障りの無い答えをするとすれば…

個性を表現する上で常識から逸脱することは必要不可欠ですが、
ただ常識を否定するだけのアナーキストになるならばその表現もまた無意味なものになってしまいます。
なので常識と非常識の狭間で表現を成立させようとするその信条は素晴らしいと思います。

とでもまとめるのがいいのでしょうか?
正確なことは正直私にはよくわかりません。

さて、長い前置きでしたが、ここに私が本当に取り上げようと思っていた問題が浮き彫りになっています。

まず、「常識を否定するだけのアナーキストになるならばその表現もまた無意味なものになる」という命題。
自由、罪、愛、それに生と死、その他もろもろの意味や価値は社会の中で初めて規定されうるものなのは明白です。
そして常識とはその社会における規範、つまり価値や意味を規定するための尺度となるものです。
つまり完全な常識の否定においてはあらゆる価値や意味はその効力を失い、
私たちの存在は正しく「木っ端微塵に」打ち砕かれ、引き裂かれます。
そんな生き方は、私にはまず不可能なように思われますし、私の薄弱な想像力によってもその生き方の想像を絶する苦しさを予感することができます。

そして結論としての「常識と非常識の狭間」
こんな言い方に果たしてどんな意味がありえるでしょうか?
単に「狭間」という言い方をしましたが、それはいったいどのような「狭間」なのでしょうか?
たしかに、ある部分で常識に従い、ある部分で常識から逸脱した言動をすることによって、一見常識と非常識の狭間に身を置くことに成功したように思えますが、それは全くの幻想です。
「常識に反する行動」としての「非常識」(ここはあくまで「」つきの「非常識」です)は常識にのっとった価値基準からの話をしている以上、非常識ではありえないのです。
つまり、そういった言動は逆説的に常識の持つ力を認め、それに服従する行為だと私には感ぜられるのです。

この質問で問われたのは非常識であることなのか「非常識」であることなのか、
単純な質問ですが、突き詰めてみるとおもしろいですよね。

Black and White 村上春樹小説についての小考察

愛と憎しみ、生と死、永遠と刹那。

こういったよく見る言い回しは、決してただ対義語を並べているだけではありません。
多くの場合に憎しみは愛によって引き起こされますし、
生がその意義を際立たせるのは死に対する時が最も顕著であることがしばしばですし、
永遠の全ては刹那のうちに含まれていると言う事もできます。

つまり、これらの言い方はそれぞれの価値の二重性を端的に描き出しているように私には感じられます。

このような二重性を持つ価値は何も上に挙げた例だけにとどまりません。
そういった様々な価値の持つ二重性をよくよく考えていってみれば、ある物事を表現する時、その表現としての価値は非常に複雑な多重性をもって描かれうることに思い至ります。
そしてそれらの重なり合った意味たちを全て同等に扱おうとするならば、まるで絵の下手な人が次々に絵の具を重ねてキャンバスを真っ黒にしてしまうように、もしくは様々な色の光が重なってついには白色になるように、その表現からは意味という名の価値が失われてしまうのです。

何かを表現する時、重要なことは「切断する」ことと「結合する」ことにある、と、いつかの授業で聞いたのをとてもよく覚えています。
私にはそのうちで「切断する」ことが非常に苦手だという自覚があります。
私の表現は、いつも余計なものまで全部を「結合して」しまったような文章です。
しっかりと重要な部分を「切断して」提示することができないから、どうも言いたいことが伝わらないのです。

ところで、この方法論で考えると、村上春樹の文章の持つ独特な魅力の一端が理解できるように思えます。
村上春樹の文章はほぼ完全に「結合された」表現で成り立っているように思います。
それゆえ小説中には様々なダブルミーニングの表現が登場しますし、
なにより文章から受けるあのなんともいえない清潔というか、無機質な感触、
あれは「結合された」表現におけるモノクロ化の結果のように私には感じられます。
それでは、村上春樹の文章は無意味な駄文だらけだ、ということかというと、そういうわけではありません。
村上春樹の文章は、そのモノクロの世界から、正確に幾つかの意味を「切断して」取り除いて表現を構築しています。
こういった方法は、まず必要な意味だけを「切断し」、その後にそれを「結合して」書かれる、簡明で力強い文章とは違った魅力を持っています。
それが、村上春樹の文章の持つ透かし彫りのような独特の魅力の源泉だと思うのです。

The Bird Ensemble

今回はCDレビューです。

先日、Mogwaiや、Stereolab、Beckの新譜などを買いに行ってきました。
その時にタワーレコードのおすすめにはまって買ってしまったのが今回紹介したいCD。

  Migration/The Bird Ensemble

ジャンルとしてはポストロックなんて呼ばれるあたりだと思います(でも、ポストロックってまったくジャンル名として意味を成してないですよね)。
今日の秋の寂しげな曇り空のもとで聞いていたら、どうしようもなくはまって心に響いてしまったので、ここで紹介したいと思いました。
ゆっくりと、静かに、しかし印象的に響くメロディーがリヴァーブのきいたドラムに乗せて寄せては返す波のように繰り返されます。
わざとらしい盛り上がりもなく、そっとそばにいてくれるような音像にすーっと入り込んでいると、ある一瞬でこんな風に感じるのです。

  「世界はきっと、今はやさしい」

日差しの和らいだ曇りの昼下がり。そっとほほをなでるそよ風。

感じ方によっては陰鬱な寒々しい曇りの日だったかもしれません。
それでも私には、あの一瞬、とても美しい瞬間に立ち会えたような気がするのです。


最近私はめっきりこういったポストロック、アンビエントなんて言葉で語られることの多いジャンルの作品ばかりを聞いているのですが、それはこういった感覚を得る瞬間が忘れられないからなのかもしれないと、今日ははっきりと思い返しました。

The Bird Ensembleの試聴はここからどうぞ。
http://profile.myspace.com/index.cfm?fuseaction=user.viewprofile&friendid=59665538


また、今日より少し暖かい日、柔らかい日差しが差し込む電車の車窓から田舎の風景を眺めているときに、同じような「はまった」感覚に襲われたのは、

Be a Bright Blue/Saxon Shore

です。
最新アルバムThe Exquisite Death of Saxon Shoreでは突き抜けるような輝きを見せてくれる一方で、その盛り上がり方がわざとらしいと感じられる面もあるのですが、
この一枚は木陰から漏れる光を眺めるような優しい明るさと、ゆったりとした空気が一貫していて、等身大の優しさに身を任せて心地よい音像体験をすることができます。

興味のある方はぜひチェックしてみてください!!

檸檬のころ レビュー

今回は久々に小説のレビューをやってみようかと思います。

 檸檬のころ/豊島ミホ 幻冬舎文庫

久しぶりに青臭すぎるほどの青春小説が読みたくなって手にとってみた本作、大当たりでした。
だいたい、こういった目的をもって青春小説を買うと、文章の読み心地だったり、主人公のキャラクターだったりで全く感情移入できずに途中で投げ出してしまうことの方が多いのですが、この小説は、最初の数ページを読んだ時点で大丈夫だと確信していました。

だって、私はこの情景を、感情を 「知っている」。

舞台は寂れた田舎の何の変哲も無い高校。
そこの中で、もしくは周りで、ごく普通の日常を送っている人々の姿が、想いが、連作の短編の中で描かれていきます。

あるのはありがちな小さなドラマだけで、ハラハラするような大スペクタクルも涙を誘う悲劇も無い。
それでも、いえ、むしろそれゆえに、この小説は私の心をとても惹きつけてくれました。
どんなに普通に見える人生の中にも確かにある、きらきらと世界が輝いて見えるような瞬間を、この小説は見事に掬い上げています。
それは恋愛の一場面だったり、友情劇の一場面だったり、はたまた、過去の記憶のフラッシュバックだったり。

この小説は、全編通じて現在の一人称視点で書かれています。
ですが、ところどころ挿入される風景描写は、感情のあり方と溶け合っていて、さながら回想をしながら書いているように私には感じられるのです。
それは、私の中で、時間を経て残された記憶は、生々しい感情を失い、それらは記憶の情景の中に光や影としてひっそりと刻み込まれているからです。
そうしてこの小説の描き出す情景は、私が青春時代に抱く郷愁を、強く強く揺さぶったのだと思います。

また、この小説のおもしろさは『短編連作』というところにもあります。
それぞれの短編の登場人物が別の短編にも登場するという仕掛けは連作の短編にはよくあるものだと思いますが、この作品ではその仕掛けを上手く使うことによって、小説の舞台である『北高』を非常に立体的に、リアリティを持たせて浮かび上がらせることに成功しています。
私は読みながら、主人公以外の生徒たちに溢れた、『開かれた』小説世界を自然と楽しんでいました。
こうして、描かれない部分まで世界の広がる小説というのは、やはりとても魅力的な作品の一つの重要な要素なのでしょう。

久々に出会えた傑作青春小説、おすすめです。

ヨーロッパ旅行記 東欧周遊編 ウィーン その2

皆さんこんばんは。今日も例によって旅行記の更新です。
今回からサムネイルをちょっと大きくしましたので、
トップページが重くなるのを避けるため、少し表示方法を変更させてもらいました。

それでは、今日はウィーン市街の紹介です。

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ヨーロッパ旅行記 東欧周遊編 ウィーン その1

こんにちは、ご無沙汰しております。
これから毎週更新するなんて言った舌の根の乾かぬうちにこんな調子で申し訳ありません。
個人的な事情がたてこんでおりまして、更新が滞っていました。
(その事情については同じ学科の友人のブログ「シーボの日記」などを参照していただけるとわかるかもです。)
とはいえ、最低限更新が遅れることを事前に通知すべきだったことは間違いなく、
以後注意するようにしますので、これからもどうぞ当ブログをごひいきにお願いいたします。


それでは、今回も旅行記の続きです。
今回からはオーストリア首都ウィーン。
まずはウィーンの中でもひときわ有名なシェーンブルン宮殿に行ってきました。
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シェーンブルン宮殿の正面からの眺め。
ここから絢爛豪華な宮殿の内部を巡るツアーに参加できるのですが、
暗い室内ではいかんせん、私の使っているポケットサイズのデジカメではまともな写真を撮ることができませんでした。
(私の旅行記の中で教会や宮殿などの建物内部の写真が極端に少ないのはこのためです。)
ですから、興味を持たれた方はぜひ、一度実際に訪れて、自らの目でハプスブルグ家の栄華を確かめてみてください。
特に、建造物の持つそれぞれの独特な雰囲気を感じるには、実際に身をその場に置くことが一番なのですから。

そして、以降はシェーンブルン宮殿の庭園の写真です。
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この三枚は宮殿横の比較的小さな庭園の写真。
行った時期がよかったせいかもしれませんが、このシェーンブルンの庭園は、色使いが鮮やかで、それでいてつつましく、非常に細かなところまでよく手入れがされていて、全体としてきれいにまとまったとてもよい庭園でした。
ザルツブルグのミラベル宮殿の庭園も個人的に大好きだったので、もしかしたら私はオーストリアの宮殿様式の庭園が感性にあっているのかもしれません。

ここからは宮殿の大きな大きな裏庭です。
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この写真にうつる噴水、丘、そして森までも、すべてがこの宮殿の庭園の一部なのです。
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写真手前の「皇太子の庭園」を半分ほど来てもまだこの遠さです。
この見渡す限りの庭園と朝方の雨から一転晴れ上がった空模様も相まって、非常に開放的な清々しい気分になれました。

個の庭園の中には実はちょっとした遊び場があります。
それが次の写真です。
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もうお分かりですよね?
なぜか庭園のなかに生垣で作った迷路があるんです。
どうしてこんなものがあったのかは全くの謎ですが、思わず童心に返って遊んでしまいました。
この周りにはそれ以外にもちょっとした公園設備みたいなものが設置してあって、
いつのまにか公園にピクニックに来たような気持ちになっていました。

迷路などでしばらく遊んだ後、再び庭園散策に戻ります。
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「皇太子の庭園」から宮殿を望む。
赤、白、水色、ピンクなど、色鮮やかでかわいらしい花々が目を楽しませてくれます。

ようやく辿り着いた「ネプチューンの噴水」です。
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名前から創造するにギリシャ神話から題材をとった噴水なのでしょう。
ほぼ左右対称なシルエットが庭園全体のシンメトリーと同調して非常に落ち着きます。
かなり大きくて迫力のある噴水なのですが、その同調性のために、迫力というよりむしろ風格のようなものを感じる噴水でした。

そして丘の上の「グロリエッテ」へ。
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まっすぐに伸びた左右対称な庭園のその端に宮殿と対をなすこのテラスを設置するという美意識が、個人的にはとても気に入りました。
この外界との境界としてのテラスを置くことにより、ある一つの「作品」としての庭園を完結させているように感じるのです。
左右対称性、外界と隔絶した世界としての庭園というこの価値は、自然の延長を庭に呼び込む、という日本的庭園の価値観とは好対照を成しているように思います。
それでこそ私はこの庭園の持つ魅力に惹かれずにはいられないのでしょう。

最後にテラスの上から望むシェーンブルン宮殿全景
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ここからはウィーンの街全体を見渡すこともできます。
ちょっとしたハイキングの最後にこの爽快な眺めが待っているとは、本当に気が効いてると思います。

皆さんもぜひ、ウィーンに行った際には半日以上をつぶす覚悟でゆっくりとシェーンブルン宮殿を楽しんでみてはいかがでしょうか?とってもとってもおすすめですよ!


それでは今回はここまで。
次回はウィーン市街地の風景を中心にお伝えしていきたいと思います。
それではまた!

ヨーロッパ旅行記 東欧周遊編 ザルツブルグ その2

皆さんこんばんは。
今日は東欧周遊旅行記ザルツブルグの後編です。

まずは旧市街の町並みから。
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ここはゲトライデ通りといい、モーツァルトの生家も面する小さな通りですが、人通りが多く旧市街のメインストリートと言っても過言ではありません。
写真の通り、道沿いの各店が掲げている看板はバラエティに富んで、歩いているだけで楽しい気持ちになりました。
中にはこんな見覚えのあるマークの看板も‥‥
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とてもマクドナルドの看板とは思えないおしゃれな看板ですよね!!
世界各地に広がるマクドナルドですが、意外にその土地に応じた様々なメニューがあったり、外観を町並みに合わせたりと、気の利いたことをしていたりもするのです。

続いて、新市街に戻り、ミラベル宮殿へ向かいました。
時間が無かったため、庭園を散歩するのみになってしまいましたが、手入れの行き届いた庭園の美しさは目を見張るものがありました。
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これがその庭園の写真たちです。
花も木も、整然と並べられた中で、それでも生き生きと鮮やかな色彩を放っている、非常にいい庭園だと思いました。
ところで、前回の記事の中で、この庭園は映画『サウンド・オブ・ミュージック』の「ドレミの歌」のロケ地になっていると書きましたが、こちらの動画で確認できます。

特に最後の写真はほぼ同じアングルで撮っているシーンがあるので、ぜひ見比べてみてください。

その後、新市街の町並みの中を歩いて駅まで戻り、一日弱のザルツブルグ観光は終わりました。
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新市街の町並み。
新市街といってもヨーロッパ的町並みがたくさん残っていることには変わりないですね。

最後に、オーストリアの有名なお菓子について少し書こうと思います。
オーストリアで最も有名なケーキといえば、ザッハートルテです。
1832年、ホテル・ザッハーの菓子職人、フランツ・ザッハーが考案し、以来ウィーンのケーキの代表として長く人々に親しまれてきたケーキですが、
そのザッハートルテの商標はかつて、本家ザッハーとデーメルという菓子店の間で争われたことがあるのです。
その詳細は他の資料に譲るとして、ここではその争いが更にこのケーキを有名にしたと言われていることにだけ触れておくことにします。

さて、前置きはこれぐらいにして、
私はこの旅行中にデーメルとザッハー、両方のザッハートルテを食べることができました。
デーメルはザルツブルグの支店、ザッハーはウィーンの本店にてです。
それで今回はデーメルのザッハートルテについての紹介です。
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手前に写っているのがデーメルのザッハートルテ、後方はアンナトルテという名前のケーキです。
ザッハートルテは見た目よりもずっとあっさりした味で、ぺろりと一個平らげてしまいました。
アンナトルテはふわふわのチョコレートケーキ。口解けのまろやかさや、濃厚なチョコの味わいは、まさに絶品でした。
実はこのデーメル、日本にも表参道にお店を出しているので、気になった方は一度行ってみてはいかがでしょうか。味は保証します!

これはザルツブルグのホテルザッハーの一階のカフェの玄関です。
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なんかこのポップの人のなんとも言えない表情が気になって撮っておきました。
「お?ザッハートルテ食べるか?高いけどな。」
とでも言い出しそうな感じがたまりません。
ザッハーのザッハートルテの紹介はウィーン編までお待ちください。

それでは、今回はここまでです。
次回はウィーン編。どうぞお楽しみに。

ヨーロッパ旅行記 東欧周遊編 ザルツブルグ

皆さんこんばんは。
前回の決意表明から早速一週間以上たってますが、今日ははりきって更新したいと思います。

今回は久しぶりの旅行記。
これから数回にわたって、昨年の秋ごろに行った東欧旅行の写真を中心に、
ザルツブルグ、ウィーン、ブタペスト、プラハと紹介記事を書いていく予定です。
どうぞお楽しみに。

それでは早速、第一回、ザルツブルグです。
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この写真はザルツブルグ旧市街地を一望するホーエンザルツブルグ城からの眺めです。

モーツァルトの生まれた町として知られるザルツブルグはこの写真の通り、非常に美しい町です。
モーツアルトの生家や、成長した後に移り住んだ家などがあり、
また、広場にはモーツァルトの銅像が建っていたりと、
街としてはとにかくモーツァルトを一押しにしていた街でした。

ですが、あまりモーツァルト関連の写真は撮ってありませんでした。。申し訳ありません。

それでは次の写真ですが、
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これは上で挙げたホーエンザルツブルグ上を下から見上げた写真です。

この丘の上まではケーブルカーで行くことができるのですが、
ここからは上の写真のようにザルツブルグの街を一望することができておすすめです。
ここはもともと大司教の隠れ家としての城塞だったそうなのですが、
たしかに城塞の名にふさわしく、無骨な外観をしていますよね。
中には砲門や、武器庫などもあり物々しい雰囲気でした。

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この写真はホーエンザルツブルグ城の中の写真です。
建物の中に広場があるというのも不思議な感じがしますが、
私が見たいくつかの西欧の城塞はどこもこういった広場があるものが多かった気がします。
また、教会もあったりと、ある意味では一つの小さな町のようでもありました。

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ザルツブルグ大聖堂とともに丘の上の城塞を望む。
この写真には大聖堂の左側が写っていませんが、
私がザルツブルグを訪れた時、ちょうどザルツブルグ大聖堂の正面左手側が修復中だったため、
その部分をはずしてとった写真がこれだったというわけです。
しかし、左半分を隠された姿でも大聖堂の美しさと迫力は十分素晴らしいものでした。


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更に次は、サンクト・ペーター教会です。
ここは元は7世紀ごろにたてられたロマネスク様式の歴史ある僧院で、
後に後期バロック様式に改装されたものだそうです。
古い歴史によるものかはわかりませんが、
確かにこの角度からの眺めは他の教会にはない独特な雰囲気を感じました。


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サンクト・ペーター教会の庭より城塞を望む。
こうしてみると、本当にホーエンザルツブルグ城は城塞として最適な土地に建っていることがよくわかります。

ちなみに、このサンクト・ペーター教会は映画『サウンド・オブ・ミュージック』のロケ地でもあるそうです。
次回紹介するミラベル宮殿もこの映画のロケ地(あの有名なドレミの歌を歌うシーン)だそうで、
ザルツブルグはサウンド・オブ・ミュージックのファンの方はぜひ訪れて頂きたい街ですね。


今回はここまでです。
次回はザルツブルグ後編、街歩きとミラベル宮殿です。どうぞお楽しみに!

決意表明

みなさん、お久しぶりです。大変ご無沙汰しておりました。
そして、初めていらっしゃった方は、はじめまして。

先々週ぐらいから都内でもセミの鳴き声が聞こえ始め、
ついには梅雨も明け、いよいよ夏本番、といったところですね。
やはり小さい頃から長期休みのある夏という季節の到来は、一種独特の高揚感があるように思います。
うだるような暑さもつらいですが、今はセミの鳴き声を聞いて、また夏という季節に戻ってきたことをしみじみと実感しています。


ところで先日、大学の同じ学科に所属しているシーボ君の日記と相互リンクを張らせていただきました。
私が通っている大学のナンバー1ブロガーである彼のブログの影響力はすさまじく、
昨日のこのブログへのアクセス数は今まで見たことの無い数字に跳ね上がっていました。

せっかく見に来てくれる方が増えたのならもう少し頑張ってみようじゃないか!というわけで、
これ以降、

最低週一回更新

を目標に頑張っていきたいと思います。


シーボ君の日記には面白さも更新頻度も遠く及ばないと思いますが、
少しでもこのブログに興味を持っていただけたのなら、これから週に一回ぐらいは立ち寄ってくれると嬉しいです。
それでは、これからどうぞよろしくお願いします。

春ももうすぐ‥‥

今日は突然随分と暖かい日でしたね。
いつもより少し薄着で出かけたものの、それ以上の日差しで汗ばむほどでした。
そういえば、学校では今日から冷房も使えるようになったらしいです。

今日も夜まで図書館で勉強して九時ごろに大学を出たのですが、つい数日前までとのあまりの変わりように驚いてしまいました。

この時間でもすこし青く光を残した夜空。
熱に浮かされたように感じるような、生暖かい空気。
けれども自転車をこいで体に感じる風はまだまだ春の名残を感じさせてくれました。
風にまぎれた線香の香り。
いつの間にか鳴き始めた虫達の声。

こうして感じたもの全てが私に夏を予感させてくれました。
季節の変わり目にだけ、一年のうちほんの数度だけ、こういった感覚がやってきてくれます。
こういうときに感じるのは、ある意味では過ぎ去った季節の回想であり、それがまた同時に再びやってくる季節への予感でもあります。

こういった瞬間にこそ私は真に記憶の中を生き、また、未来を、そしてそれをつなぐ現在をありありと感じるような気がするのです。


一年以上かけて読み終えたプルーストの『失われた時を求めて』の抄訳版。
初読で私が最も感銘を受けたのは、主人公が「失われた時」に出会う瞬間の恍惚とした感覚を美しく、そして緻密に繊細に描き出した数々の場面です。
ふとした肉体的な感覚を通じて過去のあるイメージがふと鮮明によみがえってくる瞬間。
それは意識的な思い出そうとした過去とは全く似て非なる体験。

今日はそういった感覚に似たものを感じれたような気がしました。


最後は少し蛇足。

『失われた時を求めて』はいつか時間をかけて全編を通して読んでみたいですね。
抄訳版で読んでもその内容のほとんどを理解できませんでしたが、少なくとも読むたびに新たな発見があるだろうという予感ぐらいは感じることができました。
人生を通じて幾度も読み返していきたいと思わせてくれる、そんな素敵な小説でした。

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